2016年05月01日

2016年5月

やっと休める、と楽しみにしていたゴールデンウィークも終わってしまいました…。
皆様はどこかにおでかけになりましたか?

私は4月に学校内での学部が異動になり、6年間いた中学部から、高等部(高校生)の担任となってしまいました。
前に担任していたクラスでは分刻みに動くような回転の速い日常だったのが、今度はものすごくゆっくりペースの生徒たちのクラス。言葉もゆっくりだし動きも待ちが長い。
「昨日は何をしていましたか?」の問いかけにも、「え〜とね〜…きのうは〜〜、家で〜、え〜っとぉ〜」てな調子でひとつの話をするにも何分もかかる。それを他の担任は菩薩のような微笑みで「そぅっかぁ〜。それは楽しそうだねぇ〜。」などと言葉が終わるまで気長に聞いて優しい相づちを打っておられる。
私はといえば、顔はニコニコと微笑みを浮かべて(作り笑い)聞いてるものの、超イラチの私の心はもうイライラの限界。じっと聞くってこんなに難しいものなのね…。
他の2人の担任もゆっくりペースの人たちで、優しくて穏やかで柔らかい。だからこそゆっくりクラスにピッタシな訳で、ならばなぜ「早口、早飯、早歩きの超イラチ」の私がこのクラスの配置なのか!? 1分もじっとしてられない性格なのに、絶対配置ミスだよ!

家でボヤいていると、娘が「それは神の采配。あなたに一番欠けてる部分だから。」と言う。
私「なんですと!?」
娘「自分のペースで人を動かすのではなく、人の気持ちに寄り添い包み込む。神の「少しは落ち着きなさい」との采配」 と、宗教家のようなことを言う。
私にいつも「すぐやる!今やる!すぐ動け!!」と追いたてられてる息子もここぞとばかりに「あんたに与えられた試練やな、まさしく。ゆったりクラスの担任になったのならそのペースに合わす。それこそが教師やろ」と言う。
…はい、ごもっともです。 修業の1年、と考えて人格改造に励みます…。

どんな生徒にも合わせられるようにならねば、イラチとは決別するぞ、と決意し、登校してゆっくりしてる生徒に「あと15分で体育が始まるし、すぐ着替え!」と言いたいところをぐっとこらえて、「そろそろ着替えよっかぁ?」と優しく言う。
それでも絵を描いたりして動かぬ生徒に「時間見て!」と言いたいところ、「そろそろ絵は終わりにしようね」と優しく言う。
それでも「え〜〜」と一向に動かぬ生徒に「早くっ!!間に合わないっ!!」と追いたてたいところを「一緒に行こうね、さぁ、ノートを閉じようかな」と微笑みながら言う。
そして誰もいないトイレで「あぁーーっもうイライラするっ!!」と叫ぶ。 あぁ、やっぱり私って人間できてない、と反省の毎日。

こんな私ですが、環境は人を変えるもの。きっと3ヶ月も経てば穏やかで優雅な人間に変貌してるはず。

ゆったりとしたペースで生きるかわいい生徒たちとの出会いが、新たな私への第一歩、今日も頑張るぞぉっ!! と自分に言い聞かせている日々なのでございます。(自信ないけど)。

posted by 安楽満 帆志 at 00:00| Comment(0) | エッセイ

2016年03月01日

2016年3月

暖かい日々が戻ってきました。
我が学校も小学部・中学部・高等部と3つも卒業式があるので、会場設営や祝う会設営で、看板や机を出したり撤去したりと肉体労働の忙しい日々です。

せっかく換えたスタッドレスも、結局雪は降らずで役に立ったのは一度きり。クッソーッもったいない!!という思いでノーマルタイヤに戻しました。 ノーマルタイヤに換えて2日目に、走ってたらガンガラゴン ガンガラゴンと空き缶ぶら下げたような音がする…。
「どこの新婚や、こんな田舎で車に空き缶ぶら下げて恥ずかしい奴!」 と周りを見ても車は私だけ。
「私か!?」 そう、私でした… 。
あわてて車屋に駆け込み見てもらうと
「マフラーが腐っとるで。丸ごとマフラー交換や」と言われました… ショックぅ… 。
しかも「部品取り寄せに3日かかるで。音がせんようにくくりつけとくわ」とのことで、応急措置をしてもらいましたが、ガンガラゴンの音はさほど小さくならず、3日間は一人新婚旅行状態でした。チョー恥ずかしいよ…。
「前から後ろまでやられてるし5万やな」って、5万もすんの!?
マフラーが腐る主な原因は、マフラーは鉄でできてるので冬場の橋などに撒かれる塩化カルシウムなどがついて錆びて腐ることが多いらしい。
車屋に「雪が多い地域やし しゃーないで」と言われても、今年スタッドレスに換えたけど一回しか雪降ってないっちゅーの!!
「だいたい走行距離11万キロ越えてるんやし、それなりに傷むわ。ダイハツのマスコットのシカジカ君のマグネットあげるし、諦めなされ」と、思わね出費にガックリしてる私に車屋はマグネットを4つもくれました。
まあ車は静かになったけどさ…。
家に帰りマグネットを冷蔵庫にくっつけてみたが、またこれが磁力が弱いし!!
薄っぺらい紙しかひっつかんし、厚手の紙を挟むとスルーっと下に流れるように落ちました…。

なんなんだよ、ホントにもう…

花粉症で苦しいし、出費は痛いし、マグネットは使えんし、なんだか散々だぁ〜っ!! と、
春なのに気分はどよ〜んとしているこの頃なんです…

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    カクカクシカジカ マグネット


posted by 安楽満 帆志 at 00:00| Comment(0) | エッセイ

2016年02月01日

2016年2月

随分の御無沙汰となり大変申し訳ありません。
もう年も新しくなり、冬をすっ飛ばして暦の上では春を迎えてしまいました。
まだまだ寒いですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。

私は冬のボーナスが出た日に「何も買わないぞ、台所洗剤2本だけ」と決めて100均に行き、ついふらふらとフロアの隣の電気屋エディオンに入り、エアコンを買ってしまい、頭抱えて後悔した年末でした。

さて、エッセイにも再々登場している京都は美山町の私の母の実家ですが、秋冬に大きな変化がありました。

母が体調を崩してからは、私も毎週末に母が独りで住む長岡京の実家へ行き、1週間分のおかずを作る日々で、 美山町の田舎の面倒まで手が回らない状態。「行かねば、早く行かねば」といつも悩ましい気持ちになってました。
それでも、墓参りがてらシーズンに一度は掃除に行き、植木や草刈りをシルバー人材センターに依頼しと、最低限の世話をしてたのですが、さすがに今後のことを考えると、売りに出すしかないのかと、不動産屋に相談していました。
田舎の家はボロ屋だし傾いてるし、土地も変形だし、売れるようなもんではない。私の中にも売れて欲しくない思いも強い。やっぱお婆ちゃんとの思い出の場所だから、私は無くなってほしくない。
しかし、今の家はそもそも母の育った家ではないもんで、母にはさほど愛着がない。というのも昔、母が子どもの頃は父親(私の祖父)が鮎を活きたまま京都の料亭に運ぶ運送業と鮎旅館をしており(戦争前の話)、ベンツやフォードのトラックを何台も持って社員も抱え、豪勢なお嬢の暮らしぶりをしてたらしい。写真が少し残ってるけど、ホンマ昭和初期!? というくらい、ド田舎に似つかわしくないハイカラさ。家も旅館をしてたくらいだから大きなもので、トラックの車庫といっても、運転手が寝泊まりできる二階つきの家で、道を挟んで前にありました。そんな豪勢なお嬢生活も、母が小学校6年の時に父親が亡くなり、そのうち戦争に突入。旅館業どころじゃなくなり、母も女学校の寄宿舎に、そして就職、結婚。祖母は独りで住んでたのですが、私が産まれた年に旅館が放火されて全焼。それも、放火したのは消防署の職員!どうやら公費を使い込み、その調査をされる日になると放火をし、自分のおこした火事に出動。出動すれば調査は延期になるので、そうやって調査を逃れていたとのこと。
ドラマチックな話ですが、祖母は後ろを振り返らない賢く気丈な明治女でしたが、家を焼かれ、しかも「放火したのはお前か」と取り調べを受けて、「あんな悔しいことはなかった」と涙を流してた姿は忘れられません。
結局、旅館がなくなり住む所がなくなり、急きょトラック車庫を改造して住居にしたのが今の家。だから母には愛着がないわけです。
しかし、もし売れたとなると、大量の荷物を片付けねばならぬ。売れても大変、売れなくても大変という頭の痛い状態。

ところが!
まさに降って湧いたようなラッキーな話が舞い込んできました!!

行政の「あすの村人」という事業で、過疎脱却で若者を増やすために「仕事と家を用意するから住民になろうよ」というものに、我が田舎家に白羽の矢が。振興会の人が言うには「空き家は多いが、みんな、いつか息子が戻ってくるかもしれないから、と貸す話には乗ってくれない」らしい。
私「でも、家傾いて窓開かないし、五衛門風呂は錆びてるし、すきまビュンビュンで、手を入れないと住めませんよ」
振興「改装費用補助があるから大丈夫、直しますよ」
私「山ほど荷物残ってるし、小屋もがらくただらけなんですが」
振興「残しておきたいものだけ言ってくだされば、それだけ残してあとは僕らで捨てますわ。処分費用も補助ありますし」
と、なんとも有り難い話。

そこからトントン拍子で話が進み、ついに工事が始まり、脱衣所や水洗トイレができ、家の傾きは直され窓もスイスイ開くようになり、なんとネットまで引かれました。
トイレなんてシャワートイレですよ、私の家にもないのに!

なんとスゲーっ!!
なんか狐につままれたようなオイシイ話です。家を貸すのに修理費も行政持ち、片付けも無料でやってくれる!!
新たな住民の荷物が運ばれてくる中、私は「残すべきもの」の選別に行きました。
祖母の着物、写真、餅つきの石臼、火鉢、祖母と一緒に栗拾いをした籠を残すことに。
そしてさらに、悩んだ末に、長い間小屋に貼られてた金鳥蚊取り線香(水原弘の)看板とボンカレー(名前わからんが、「私にも作れます」と昔テレビで京都弁で言うてた着物のおばちゃんの)看板も残しました。
ボロ錆び状態でしたが、私が小さい時、川から泳いで疲れて歩いて帰る道で、この看板が遠くから見えると「もう少し」と頑張り、だんだん看板が大きくなると安心したものです。
子どもの頃は大きな看板だと思ってたのに、こうして見ると小さいものだったんだなぁ…。
結局、価値のあるものはなく、思い出のものを残しただけって感じで新しい住人に後を託した形となりました。
売る訳じゃなく貸すだけだし、それならお婆ちゃんへの罪悪感もないし、人が住んでくれることで家も傷まないし、言うことなしの結果。

なのにこの寂しさは何!?
自分でも理屈のつかない寂しさがどっときた。
栗拾いができない?
いや、旅館の跡地に栗の木があるし、そこは貸してないから栗拾いはできる。
墓参りの拠点がない不便さか? 何なんだこの気持ちは…

多分私は、自分が好きな時に田舎の家に行って、ほっこりしたり、お婆ちゃんとの思い出に浸りたかったんだと思う。
いつか、川に行って、せせらぎの音を聞きながらヒグラシの声に夏の終わりを感じたり、春の山の恵みにワクワクしたり、チマキの笹をとりに行ったりと、お婆ちゃんとの暮らしの中で得た私の原風景に触れる機会が無くなりそうで怖かったんだろう…… それが寂しさの理由なんだろうな、とわかりました。

新しい住人は1月なかばからあの田舎家に住んでおられます。間に行政が入ってて、私は行政に貸して、行政が住人に貸す形なので、私が直接住人とお話する機会はないのだけれど、いつかもし話す機会があるなら、この田舎家が持ついろんな人を支えてきた深くて長いストーリーを伝えられれば、と思うのです…。

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これがトラック小屋を改造した田舎家です。
もともと旅館があった場所から撮ってます。

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(左)五衛門風呂に脱衣所がついた
(右)いいなぁ…シャワートイレ
posted by 安楽満 帆志 at 00:00| Comment(0) | エッセイ